世界を敵にまわしても
2007年4月14日 【現状】 コメント (1)不特定多数の人間が見ていることを承知で書くというのは、なんと気持ちのいいことだろう。
たとえ世界を敵にしてもかまわない。
私はこうして文字を吐く。
文字を吐くことでしか得られない、自己実現。
私には、おつきあいをしている男性がひとりいます。
もう三年以上の付き合いで、知り合ったとき、彼はまだ大学の一年生でした。
正直、若いを通り越した若さに戸惑ったものです。
その彼も無事大学を卒業し、この春からはれて社会人です。
地方採用ではあるけれども、業界大手五社に数えられる企業です。
彼は、つい先月まで学生だったということと、私が三歳年上、そして、社会人六年目(今年七年目になりました)ということもあって、デート代の九割以上は私が払っていました。
そのことは何ら問題がありません。
投資だと思えばいいことです。
私は彼に、就職が決まったらペアリングを買ってくれるという約束を取り付けました。
ペアリングは、つきあいたてのころにお金を半分づつ出し合って買った、シルバーのものがあったのですが、彼はそれを故意ではないものの、なくしてしまったという経緯があります。
なくしてしまったことには腹を立てていません。
仕方のないことです。
しかし、それ以来二年近くあいたままの私の指に、新しい指輪が欲しかったのです。
私は待ちました。
厳しい(といっても今年あたりは楽だったようですが)就職難を乗り越えるのを。
就職が決まったらでいい、と思っていました。
卒業までの単位も不足していない様子でしたし、就職が決まってから卒業までのあいだに、アルバイト等をして稼いで買ってくれるものだと思っていました。
それは、かたちの見えにくい「愛情」というものを具体化する唯一の手段のようだと考えていました。
指輪の件については、先週末、名刺入れの件とともになんとなく片付いたような気がします。
名刺入れの件、とは、置き去りにされたプレゼントのことです。
あれは確か、一昨年のクリスマスでした。
私たちは、人並みに、クリスマスのプレゼント交換というものをしました。
私は、キーケースをもらいました。
それは、今でも大事に使っています。
私は、名刺入れをあげました。
まだ学生でしたが、学生だからこそ、これから重要なアイテムになると思ってチョイスしたものです。
社会人になってから買うのでは遅く、早く持っていて困るものではないと考えたのです。
それを彼は、プレゼント交換をした我が家に置いていきました。
まぁ、忘れ物等よくあることです。
数回は目を瞑りました。
しかし、それは、半年以上も私の部屋のパソコンの隣、つまり目に見える位置にあったのです。
私には彼の気持ちが理解できませんでした。
いろいろなひとに聞き、彼の気持ちを理解しようとしました。
しかし、私は同情されるだけで、彼の気持ちを代弁してくれるひとは現れませんでした。
これは、友人らが私の味方をしてくれている、というだけではないと信じています。
去年の夏、私が原因ではあるのですが、大げんかをしたときに、私は精神安定剤や睡眠薬、果ては下剤等を大量に服薬しました。
死にたかったわけではありません。
飲んでいる途中に、飲んでいることを忘れてしまう程になっていたのです。
そのとき、私はその名刺入れの箱にライタで火をつけ、燃やしました。
私が大事にしているお盆の上で。
よくもまぁ、火事にならなかったものです。
そのうえ、記憶がとんでいるにもかかわらず、燃やしたのは箱だけだったという事実。
中身は、まぁ、贈った本人がいうのも変ですが、わりかし上等なものだったので、なんだか勿体無いと思ったのでしょう。
私はその名刺入れを隠しました。
そして、周囲には「記憶が混乱している時になくした」と話しておいたのです。
もちろん、彼自身にも。
私は歩行もままならず、よく階段から転倒していました。
そのときの傷は、今でも脚に残っています。
その後も何かあると薬を過剰摂取し、無心にものを食べ続けました。
正式に過食症という診断は下っていないのですが、過食症の友人らと同じようなものの食べ方をしていました。
なんだかわけのわからないものを創作して食べたりもしました。
同時に、アルコールも摂取していたため、もしかすると飛び出して車にはねられたり、ホームから転落して電車にひかれたりしていたかも知れません。
そう考えると死ななかったことが奇跡ですし、多くの同じような病状のひとと違い、私はしょっちゅう外出をし、むしろ、好んで外に出ていたような気もします。
私の病気(いまとなっては病気だったかどうかもあやしいのですが)は、職場への適応障害でした。
主治医は、私を職場から引き剥がすという荒療治に出ました。
当初の予定では三カ月でしたが、結局六カ月も休むことになってしまいました。
おかげで今は回復し、職場へも無事復帰して日々の作業をこなしています。
休んだことを、私はとてもよかったことだと思っています。
しかし、よろこんでばかりもいられないことがあります。
お金です。
最初の三カ月は、かなり割引かれたものの、少しだけお給料がもらえていました。
それは、やっと家賃と光熱費が払える程です。
私は貯金を崩しました。
二十歳で専門を卒業してから働きはじめて家を飛び出した私自身の意地でもありました。
絶対に実家等頼らない、そう決めていました。
三カ月で私は社会復帰するつもりでいました。
しかし、できませんでした。
三カ月の休職期間延長は、社長の暖かい御好意もあり、受け入れてもらうことができました。
お金は払えないといわれましたが、そんなものもらえません。
籍を置いてもらえるだけで有難いことです。
父親にお金をもらうことは、屈辱的でもありました。
しかし、父は私を心配してくれました。
私は自分の貯金と、父親からのわずかな(といってもとても有難い)仕送りで暮らしていました。
私は彼に、期待をしていました。
働くことのできなくなった私を目の前にして、かわりに働くことはできなくても、せめてデート代を少し払うとか、なにか遠慮する等の配慮があって当然だと思ったのです。
おかしいでしょうか?
しかし彼は、金銭的な部分をほぼ全面的に私に頼ってきました。
それは、夏に行った旅行でもそうでした。
旅費のほとんどを私が払う、という、奇妙な旅行でした。
なんだかんだあって、このとき立て替えたお金の差額は一万円です。
私がそのうち受け取ることになっていたお金です。
私は、友人と食事に行ったりして、彼に連絡をしそこねてしまうことが何度もありました。
申し訳ないとは思っているのですが、なんせ酔っていると忘れがちになってしまうものです。
治したい癖です。
これが原因で喧嘩になることが多いのです。
自分を正当化したいわけではないのですが、彼には社会経験が薄いところがあります。
彼は、高校時代から、何か部活動やサークル等といった集団で活動する機会を持ってきませんでした。
私は、あまり大人数は得意ではないものの、高校では生徒会や、専門学校の同窓会では幹事をしたり、そういったひととの繋がりや、関係、会話、会合を大事にします。
ひとに会うのが好きで、だからきっと、休職中もしょっちゅう外出していたのだと思います。
多くのひとに会うということは、自分を開放する手段でもあるのです。
こういった場が好きだったり、何度も参加している方はおわかりでしょうが、その場の雰囲気等があって、なかなか連絡をしにくいということもあると思います。
身近な存在である恋人をぞんざいに扱うわけではないのですが、身近だからこそ、今でなくてもよく、今目の前にいる、あまり会えないひととの会合を楽しみたい、というものだと思っています。
これは、私が以前、酒類メーカの営業のひととおつきあいしていたときに学んだ術です。
酒類メーカの営業、というだけで、酒まみれなのはおわかりになるかと思います。
連絡のない彼を心配し、怒り、あきれ、そんな日々に疲れた私は、同じことをしてみました。
すっきりはっきりしました。
ああ、ひとと会う、というのはこういうことなのだ、と。
私は彼に、ぞんざいに扱われていたわけではないのです。
仕事、プライヴェートに関わらず、一人ですごすのではなく、そうやって誰かに会って、エネルギィを吐き出したり、吸い取ったりしているのだ、と。
彼の、全てのエネルギィが私に一極集中しなくてすんだ理由でもありました。
わたしたちは、お互いをより理解しあうことに成功しました。
そして、お互いのために、別れることになったのです。
彼のことは今でも尊敬しています。
けれども、連絡は取っていません。
取れるわけないじゃないですか。
話をもとに戻しましょう。
結局、四月になってしまいました。
私の指は、あいたままです。
彼は先週末、私に言いました。
「名刺入れ、どっかにある?」
私は彼に、散々どこかにやってしまった、捨ててしまったかも知れないと言っていたのですが、どこかにあると信じていたのでしょう。
なんせ、彼が見た燃えカスは、箱だけだったのですから。
私は、どうして半年以上も放置したのかを聞きました。
私の部屋を自分の部屋のように思っていて、物置きのように扱ってしまったと言っていましたが、まだ納得できていません。
しかし、なんとなく納得したふりをしておきました。
そして、指輪の件を切り出しました。
「お給料もらったらそれで買うつもりやった」というようなことを言われました。
唖然としました。
それでは、それは、私の欲しい指輪じゃない。
私は、卒業前に、欲しかったのだ。
そのことを言うと、「じゃ、いらんのやな」と言われました。
違う。そういう問題じゃない。
ああ、うまく説明できないことがもどかしくてなりません。
それから、お金の件も言いました。
昨夏の旅行の一万円の話ではありません。
三月上旬に山梨へ行ったときのお金です。
友人と三人で、レンタカーで行きました。
お金は均等割りすることに決めていました。
車、高速道路、ガソリン代。
全部で一万四千数百円でした。
食事は別途私が三人分払っていましたが、それはオマケです。
そこのことも含め、ひとり五千円、となりました。
まぁ、妥当なところだと思います。
友人には、帰り際にもらいました。
彼は、あとで払う、と言いました。
簡単な足し算です。
彼が「あとで払う」と言った金額の合計は、一万五千円です。
しかし彼は、先の一万円のこと等忘れているのでしょう。
私の手に一万円札を握らすと、満足げな顔をしました。
まるで、多く払った、とでも言いたそうに。
そのお金は、とても汚いように思えました。
一円の価値も見えませんでした。
五千円足りない、とは言えませんでした。
私は彼に、名刺入れを差し出しました。
箱のない皮製のそれは、弱り切って、しんなりしていました。
入社して、名刺入れが必要になったことを思い出してそう言ったのでしょう。
私は、ただそれだけだと思っています。
私たちは、去年、お互いの誕生日を祝っていません。
彼は私に電報をうってくれましたが、とくにこれといって何もありませんでした。
だからというわけではないのですが、私の約十日後に来る彼の誕生日に、私は何もしませんでした。
理由はただひとつです。
一昨年の名刺入れの件を片付けるまで、私は彼に贈り物等する気になれなかったのです。
名刺入れの件が片付いた今でも、今年の私の誕生日に何もなかったら、私は彼の誕生日に何もしないことでしょう。
報復、ととられても仕方がありません。
しかし、私は、誕生日程重要な日は無いと思っているのです。
誰かに祝ってもらえれば、それだけで私は、生きていてよかったと思えるのです。
大袈裟では無く。
後日でもいいのです。
フライングして前日でも、四十歳になろうと五十歳になろうと、祝って欲しいのです。
一年に一度、私が生きていられることを誇れるように。
十年程前、まだ高校生だった私は、たまに家で暴れていました。
発散する手段がわからなかったのです。
それは現在でも続き、たまにものを投げたり、奇声を発したりしてしまいます。
父親は私に怒鳴りました。
「育ててやってるんだ」というようなことを。
私は父親に怒鳴り返しました。
「産んでくれなんて言って無い!!」
そうです、誰にでもあるような葛藤です。
そんなに育てるのが面倒なら、産まなかったらよかったじゃない。
今では笑い話です。
私の考えが幼稚すぎました。
今では、生きているこの奇跡に感謝しています。
私は彼と、PHSを持つ約束をしました。
それは、電話代節約のためです。
私は彼が、携帯電話の料金を親に払ってもらっていることを知りながらも、お金がないだろうから、と、たいていこちらからかけていました。
しかし、彼も社会人になり、電話代等は自分で払うということから、私は通話料無料の魅力にとりつかれたのです。
私は、一足先にPHSを買いました。
彼(+α,他のPHSユーザ)専用の回線です。
先週末、街で、PHSの会社の手提げを揃いで持っているカップルに遭遇しました。
私は、「ピッチカップル増えてるね」と、さりげなく、早く買って欲しいと言うことをアピールしました。
「本体が高いもんでなぁ、給料入ったら買うわ」というようなことを言っていました。
これで、給料後の約束は、指輪とPHSのふたつになりました。
私と彼は、ホームページを持っています。
それは、彼の趣味のサイトで、彼が素材を集め、私が構成しています。
二人での作業です。
その作業も、最近は私が止めてしまっています。
私の仕事はパソコンを扱うものなので、家に帰ってきてまでも作業やデザインをしたくないというのが主な理由ですが、正直、ここまで奉仕する意味がわからなくなってきたというのもあります。
アルバイトをするタイミングがなかなかなかったりはしたかも知れませんが、HTMLの勉強くらいできたはずです。
私だって独学です。
ホームページを持っているほとんどのひとが皆独学なのではないでしょうか。
ちょっとはそんな努力をしたっていいじゃないですか、そう思ってしまったのです。
彼のブログも、実は、私が開設したものです。
下準備を全てすませ、彼に差し出したのです。
まぁ、彼がPCオンチなだけかもしれないのですが。
今日、仕事から帰ってきた私は、彼に電話をしました。
ウイークデイは時間のすれ違いが多く、なかなかゆっくり話すこともできないので、化粧も落とさないまま、かけました。
まだPHSを持っていないので、携帯電話に、です。
前半は、近況報告等をしました。
明日と明後日は、それぞれ友人とごはんを食べに行く、と伝えました。
それから明日は、通院日だ、とも。
そろそろ寝ましょうか、といった段に、彼は言いました。
「どこか出かけてもいいけれど、日付変わる前には帰って来て欲しい」と。
私は、私の友人関係に立ち入られたことに少し腹が立ちましたが、彼は何かと心配なのでしょう。
とくに、薬を大量摂取して階段から落ちたりする場面をよくみていたわけですし、その他にもいろいろと。
私の会社は、だいたい十二時頃出社で、二十二時頃までの勤務です。
帰りは毎日日付が変わるあたり。
でも、私はなんとも思っていません。
仕事があるだけ満足していますし、朝九時出社でそのくらいの時間まで残業しなければならないひともたくさんいるのですから。
朝が遅いということは、とても恵まれていると思っています。
しかしそれも彼には不満なのでしょう。
九時五時勤務をよしとするようなところがあるのですから。
主治医は、今の私の勤務形態を、「始まりと終わりの時間が決まっていて、超えなければ大丈夫」と言ってくれています。
そして、「彼も、社会人になればわかるよ。仕事のことに口出しできないってことが」と言ってくれました。
そう、やはり、社会経験が浅いのです。
決してばかにしているわけではありません。
これからまだまだたくさん積み、学べることなのですから。
彼は、車が欲しい、と散々言っています。
それは、四月になってから、とくに強く言うようになりました。
持っていた方が便利だとは思うけれど、私は少し腹が立っていました。
その前に、指輪とPHSが先だと思っていたからです。
車を買うのは勝手だけれども、私はその前に、安定が欲しいのです。
彼が社会人になっていちばん期待していることは、金銭面です。
私の負担が減るとしたら、なんと素敵なことなのでしょう。
彼とのデート代がかからなくなったら、私はそのお金でジム通いをしようと思っています。
彼は私に痩せろと言いますが、今の私には、ジム通いをする余裕がありません。
自力でダイエットもできますが、あまり精神バランスがよくないので、うっかり拒食症になりかねないので怖いのです。
食べて、運動して、きれいになりたいのです。
それは彼も理解してくれているはずですが、そんな生活は夢のまた夢ではないかと思えてくるのです。
車だなんて。
よく考えて、私は指輪より先に、PHSだと思いました。
「車より先に、PHS買って欲しいな」と言いました。
すると彼は、「買ってもいいんやけど、買ったところで必要なくなってしまいそうで」と言いました。
なんでも、「買っても私に逃げられそうだ」と言うのです。
また先延ばしです。
この分では、給料日後にも買わないつもりではないかと思いました。
正直、金銭的にしんどいことを伝えました。
すると彼は、「別にかけてくれとは言ってない」と言うのです。
これはまさに、高校生当時の幼稚な私の再来です。
そうです、そのような考えは幼稚でしかないことを、私はもう知ってしまったのです。
もう、どの話から入って、どの話で終わったかわからなくなってきました。
とにかく私は、飲んで帰りが遅くなって、連絡取れないのでだめなんだそうです。
ホームページの更新も滞っているから、信用できないのだそうです。
そして、経験が浅いだのなんだのと、ほんとうのことをいうのはただの上から目線で、しんどいんだそうです。
もっと男を尊敬して、たててほしいのだそうです。
だから、別れてくれ、と言われました。
彼の勤務地は、伊勢に決まりました。
たとえ世界を敵にしてもかまわない。
私はこうして文字を吐く。
文字を吐くことでしか得られない、自己実現。
私には、おつきあいをしている男性がひとりいます。
もう三年以上の付き合いで、知り合ったとき、彼はまだ大学の一年生でした。
正直、若いを通り越した若さに戸惑ったものです。
その彼も無事大学を卒業し、この春からはれて社会人です。
地方採用ではあるけれども、業界大手五社に数えられる企業です。
彼は、つい先月まで学生だったということと、私が三歳年上、そして、社会人六年目(今年七年目になりました)ということもあって、デート代の九割以上は私が払っていました。
そのことは何ら問題がありません。
投資だと思えばいいことです。
私は彼に、就職が決まったらペアリングを買ってくれるという約束を取り付けました。
ペアリングは、つきあいたてのころにお金を半分づつ出し合って買った、シルバーのものがあったのですが、彼はそれを故意ではないものの、なくしてしまったという経緯があります。
なくしてしまったことには腹を立てていません。
仕方のないことです。
しかし、それ以来二年近くあいたままの私の指に、新しい指輪が欲しかったのです。
私は待ちました。
厳しい(といっても今年あたりは楽だったようですが)就職難を乗り越えるのを。
就職が決まったらでいい、と思っていました。
卒業までの単位も不足していない様子でしたし、就職が決まってから卒業までのあいだに、アルバイト等をして稼いで買ってくれるものだと思っていました。
それは、かたちの見えにくい「愛情」というものを具体化する唯一の手段のようだと考えていました。
指輪の件については、先週末、名刺入れの件とともになんとなく片付いたような気がします。
名刺入れの件、とは、置き去りにされたプレゼントのことです。
あれは確か、一昨年のクリスマスでした。
私たちは、人並みに、クリスマスのプレゼント交換というものをしました。
私は、キーケースをもらいました。
それは、今でも大事に使っています。
私は、名刺入れをあげました。
まだ学生でしたが、学生だからこそ、これから重要なアイテムになると思ってチョイスしたものです。
社会人になってから買うのでは遅く、早く持っていて困るものではないと考えたのです。
それを彼は、プレゼント交換をした我が家に置いていきました。
まぁ、忘れ物等よくあることです。
数回は目を瞑りました。
しかし、それは、半年以上も私の部屋のパソコンの隣、つまり目に見える位置にあったのです。
私には彼の気持ちが理解できませんでした。
いろいろなひとに聞き、彼の気持ちを理解しようとしました。
しかし、私は同情されるだけで、彼の気持ちを代弁してくれるひとは現れませんでした。
これは、友人らが私の味方をしてくれている、というだけではないと信じています。
去年の夏、私が原因ではあるのですが、大げんかをしたときに、私は精神安定剤や睡眠薬、果ては下剤等を大量に服薬しました。
死にたかったわけではありません。
飲んでいる途中に、飲んでいることを忘れてしまう程になっていたのです。
そのとき、私はその名刺入れの箱にライタで火をつけ、燃やしました。
私が大事にしているお盆の上で。
よくもまぁ、火事にならなかったものです。
そのうえ、記憶がとんでいるにもかかわらず、燃やしたのは箱だけだったという事実。
中身は、まぁ、贈った本人がいうのも変ですが、わりかし上等なものだったので、なんだか勿体無いと思ったのでしょう。
私はその名刺入れを隠しました。
そして、周囲には「記憶が混乱している時になくした」と話しておいたのです。
もちろん、彼自身にも。
私は歩行もままならず、よく階段から転倒していました。
そのときの傷は、今でも脚に残っています。
その後も何かあると薬を過剰摂取し、無心にものを食べ続けました。
正式に過食症という診断は下っていないのですが、過食症の友人らと同じようなものの食べ方をしていました。
なんだかわけのわからないものを創作して食べたりもしました。
同時に、アルコールも摂取していたため、もしかすると飛び出して車にはねられたり、ホームから転落して電車にひかれたりしていたかも知れません。
そう考えると死ななかったことが奇跡ですし、多くの同じような病状のひとと違い、私はしょっちゅう外出をし、むしろ、好んで外に出ていたような気もします。
私の病気(いまとなっては病気だったかどうかもあやしいのですが)は、職場への適応障害でした。
主治医は、私を職場から引き剥がすという荒療治に出ました。
当初の予定では三カ月でしたが、結局六カ月も休むことになってしまいました。
おかげで今は回復し、職場へも無事復帰して日々の作業をこなしています。
休んだことを、私はとてもよかったことだと思っています。
しかし、よろこんでばかりもいられないことがあります。
お金です。
最初の三カ月は、かなり割引かれたものの、少しだけお給料がもらえていました。
それは、やっと家賃と光熱費が払える程です。
私は貯金を崩しました。
二十歳で専門を卒業してから働きはじめて家を飛び出した私自身の意地でもありました。
絶対に実家等頼らない、そう決めていました。
三カ月で私は社会復帰するつもりでいました。
しかし、できませんでした。
三カ月の休職期間延長は、社長の暖かい御好意もあり、受け入れてもらうことができました。
お金は払えないといわれましたが、そんなものもらえません。
籍を置いてもらえるだけで有難いことです。
父親にお金をもらうことは、屈辱的でもありました。
しかし、父は私を心配してくれました。
私は自分の貯金と、父親からのわずかな(といってもとても有難い)仕送りで暮らしていました。
私は彼に、期待をしていました。
働くことのできなくなった私を目の前にして、かわりに働くことはできなくても、せめてデート代を少し払うとか、なにか遠慮する等の配慮があって当然だと思ったのです。
おかしいでしょうか?
しかし彼は、金銭的な部分をほぼ全面的に私に頼ってきました。
それは、夏に行った旅行でもそうでした。
旅費のほとんどを私が払う、という、奇妙な旅行でした。
なんだかんだあって、このとき立て替えたお金の差額は一万円です。
私がそのうち受け取ることになっていたお金です。
私は、友人と食事に行ったりして、彼に連絡をしそこねてしまうことが何度もありました。
申し訳ないとは思っているのですが、なんせ酔っていると忘れがちになってしまうものです。
治したい癖です。
これが原因で喧嘩になることが多いのです。
自分を正当化したいわけではないのですが、彼には社会経験が薄いところがあります。
彼は、高校時代から、何か部活動やサークル等といった集団で活動する機会を持ってきませんでした。
私は、あまり大人数は得意ではないものの、高校では生徒会や、専門学校の同窓会では幹事をしたり、そういったひととの繋がりや、関係、会話、会合を大事にします。
ひとに会うのが好きで、だからきっと、休職中もしょっちゅう外出していたのだと思います。
多くのひとに会うということは、自分を開放する手段でもあるのです。
こういった場が好きだったり、何度も参加している方はおわかりでしょうが、その場の雰囲気等があって、なかなか連絡をしにくいということもあると思います。
身近な存在である恋人をぞんざいに扱うわけではないのですが、身近だからこそ、今でなくてもよく、今目の前にいる、あまり会えないひととの会合を楽しみたい、というものだと思っています。
これは、私が以前、酒類メーカの営業のひととおつきあいしていたときに学んだ術です。
酒類メーカの営業、というだけで、酒まみれなのはおわかりになるかと思います。
連絡のない彼を心配し、怒り、あきれ、そんな日々に疲れた私は、同じことをしてみました。
すっきりはっきりしました。
ああ、ひとと会う、というのはこういうことなのだ、と。
私は彼に、ぞんざいに扱われていたわけではないのです。
仕事、プライヴェートに関わらず、一人ですごすのではなく、そうやって誰かに会って、エネルギィを吐き出したり、吸い取ったりしているのだ、と。
彼の、全てのエネルギィが私に一極集中しなくてすんだ理由でもありました。
わたしたちは、お互いをより理解しあうことに成功しました。
そして、お互いのために、別れることになったのです。
彼のことは今でも尊敬しています。
けれども、連絡は取っていません。
取れるわけないじゃないですか。
話をもとに戻しましょう。
結局、四月になってしまいました。
私の指は、あいたままです。
彼は先週末、私に言いました。
「名刺入れ、どっかにある?」
私は彼に、散々どこかにやってしまった、捨ててしまったかも知れないと言っていたのですが、どこかにあると信じていたのでしょう。
なんせ、彼が見た燃えカスは、箱だけだったのですから。
私は、どうして半年以上も放置したのかを聞きました。
私の部屋を自分の部屋のように思っていて、物置きのように扱ってしまったと言っていましたが、まだ納得できていません。
しかし、なんとなく納得したふりをしておきました。
そして、指輪の件を切り出しました。
「お給料もらったらそれで買うつもりやった」というようなことを言われました。
唖然としました。
それでは、それは、私の欲しい指輪じゃない。
私は、卒業前に、欲しかったのだ。
そのことを言うと、「じゃ、いらんのやな」と言われました。
違う。そういう問題じゃない。
ああ、うまく説明できないことがもどかしくてなりません。
それから、お金の件も言いました。
昨夏の旅行の一万円の話ではありません。
三月上旬に山梨へ行ったときのお金です。
友人と三人で、レンタカーで行きました。
お金は均等割りすることに決めていました。
車、高速道路、ガソリン代。
全部で一万四千数百円でした。
食事は別途私が三人分払っていましたが、それはオマケです。
そこのことも含め、ひとり五千円、となりました。
まぁ、妥当なところだと思います。
友人には、帰り際にもらいました。
彼は、あとで払う、と言いました。
簡単な足し算です。
彼が「あとで払う」と言った金額の合計は、一万五千円です。
しかし彼は、先の一万円のこと等忘れているのでしょう。
私の手に一万円札を握らすと、満足げな顔をしました。
まるで、多く払った、とでも言いたそうに。
そのお金は、とても汚いように思えました。
一円の価値も見えませんでした。
五千円足りない、とは言えませんでした。
私は彼に、名刺入れを差し出しました。
箱のない皮製のそれは、弱り切って、しんなりしていました。
入社して、名刺入れが必要になったことを思い出してそう言ったのでしょう。
私は、ただそれだけだと思っています。
私たちは、去年、お互いの誕生日を祝っていません。
彼は私に電報をうってくれましたが、とくにこれといって何もありませんでした。
だからというわけではないのですが、私の約十日後に来る彼の誕生日に、私は何もしませんでした。
理由はただひとつです。
一昨年の名刺入れの件を片付けるまで、私は彼に贈り物等する気になれなかったのです。
名刺入れの件が片付いた今でも、今年の私の誕生日に何もなかったら、私は彼の誕生日に何もしないことでしょう。
報復、ととられても仕方がありません。
しかし、私は、誕生日程重要な日は無いと思っているのです。
誰かに祝ってもらえれば、それだけで私は、生きていてよかったと思えるのです。
大袈裟では無く。
後日でもいいのです。
フライングして前日でも、四十歳になろうと五十歳になろうと、祝って欲しいのです。
一年に一度、私が生きていられることを誇れるように。
十年程前、まだ高校生だった私は、たまに家で暴れていました。
発散する手段がわからなかったのです。
それは現在でも続き、たまにものを投げたり、奇声を発したりしてしまいます。
父親は私に怒鳴りました。
「育ててやってるんだ」というようなことを。
私は父親に怒鳴り返しました。
「産んでくれなんて言って無い!!」
そうです、誰にでもあるような葛藤です。
そんなに育てるのが面倒なら、産まなかったらよかったじゃない。
今では笑い話です。
私の考えが幼稚すぎました。
今では、生きているこの奇跡に感謝しています。
私は彼と、PHSを持つ約束をしました。
それは、電話代節約のためです。
私は彼が、携帯電話の料金を親に払ってもらっていることを知りながらも、お金がないだろうから、と、たいていこちらからかけていました。
しかし、彼も社会人になり、電話代等は自分で払うということから、私は通話料無料の魅力にとりつかれたのです。
私は、一足先にPHSを買いました。
彼(+α,他のPHSユーザ)専用の回線です。
先週末、街で、PHSの会社の手提げを揃いで持っているカップルに遭遇しました。
私は、「ピッチカップル増えてるね」と、さりげなく、早く買って欲しいと言うことをアピールしました。
「本体が高いもんでなぁ、給料入ったら買うわ」というようなことを言っていました。
これで、給料後の約束は、指輪とPHSのふたつになりました。
私と彼は、ホームページを持っています。
それは、彼の趣味のサイトで、彼が素材を集め、私が構成しています。
二人での作業です。
その作業も、最近は私が止めてしまっています。
私の仕事はパソコンを扱うものなので、家に帰ってきてまでも作業やデザインをしたくないというのが主な理由ですが、正直、ここまで奉仕する意味がわからなくなってきたというのもあります。
アルバイトをするタイミングがなかなかなかったりはしたかも知れませんが、HTMLの勉強くらいできたはずです。
私だって独学です。
ホームページを持っているほとんどのひとが皆独学なのではないでしょうか。
ちょっとはそんな努力をしたっていいじゃないですか、そう思ってしまったのです。
彼のブログも、実は、私が開設したものです。
下準備を全てすませ、彼に差し出したのです。
まぁ、彼がPCオンチなだけかもしれないのですが。
今日、仕事から帰ってきた私は、彼に電話をしました。
ウイークデイは時間のすれ違いが多く、なかなかゆっくり話すこともできないので、化粧も落とさないまま、かけました。
まだPHSを持っていないので、携帯電話に、です。
前半は、近況報告等をしました。
明日と明後日は、それぞれ友人とごはんを食べに行く、と伝えました。
それから明日は、通院日だ、とも。
そろそろ寝ましょうか、といった段に、彼は言いました。
「どこか出かけてもいいけれど、日付変わる前には帰って来て欲しい」と。
私は、私の友人関係に立ち入られたことに少し腹が立ちましたが、彼は何かと心配なのでしょう。
とくに、薬を大量摂取して階段から落ちたりする場面をよくみていたわけですし、その他にもいろいろと。
私の会社は、だいたい十二時頃出社で、二十二時頃までの勤務です。
帰りは毎日日付が変わるあたり。
でも、私はなんとも思っていません。
仕事があるだけ満足していますし、朝九時出社でそのくらいの時間まで残業しなければならないひともたくさんいるのですから。
朝が遅いということは、とても恵まれていると思っています。
しかしそれも彼には不満なのでしょう。
九時五時勤務をよしとするようなところがあるのですから。
主治医は、今の私の勤務形態を、「始まりと終わりの時間が決まっていて、超えなければ大丈夫」と言ってくれています。
そして、「彼も、社会人になればわかるよ。仕事のことに口出しできないってことが」と言ってくれました。
そう、やはり、社会経験が浅いのです。
決してばかにしているわけではありません。
これからまだまだたくさん積み、学べることなのですから。
彼は、車が欲しい、と散々言っています。
それは、四月になってから、とくに強く言うようになりました。
持っていた方が便利だとは思うけれど、私は少し腹が立っていました。
その前に、指輪とPHSが先だと思っていたからです。
車を買うのは勝手だけれども、私はその前に、安定が欲しいのです。
彼が社会人になっていちばん期待していることは、金銭面です。
私の負担が減るとしたら、なんと素敵なことなのでしょう。
彼とのデート代がかからなくなったら、私はそのお金でジム通いをしようと思っています。
彼は私に痩せろと言いますが、今の私には、ジム通いをする余裕がありません。
自力でダイエットもできますが、あまり精神バランスがよくないので、うっかり拒食症になりかねないので怖いのです。
食べて、運動して、きれいになりたいのです。
それは彼も理解してくれているはずですが、そんな生活は夢のまた夢ではないかと思えてくるのです。
車だなんて。
よく考えて、私は指輪より先に、PHSだと思いました。
「車より先に、PHS買って欲しいな」と言いました。
すると彼は、「買ってもいいんやけど、買ったところで必要なくなってしまいそうで」と言いました。
なんでも、「買っても私に逃げられそうだ」と言うのです。
また先延ばしです。
この分では、給料日後にも買わないつもりではないかと思いました。
正直、金銭的にしんどいことを伝えました。
すると彼は、「別にかけてくれとは言ってない」と言うのです。
これはまさに、高校生当時の幼稚な私の再来です。
そうです、そのような考えは幼稚でしかないことを、私はもう知ってしまったのです。
もう、どの話から入って、どの話で終わったかわからなくなってきました。
とにかく私は、飲んで帰りが遅くなって、連絡取れないのでだめなんだそうです。
ホームページの更新も滞っているから、信用できないのだそうです。
そして、経験が浅いだのなんだのと、ほんとうのことをいうのはただの上から目線で、しんどいんだそうです。
もっと男を尊敬して、たててほしいのだそうです。
だから、別れてくれ、と言われました。
彼の勤務地は、伊勢に決まりました。
コメント
言葉が尽きてしまうくらいに