『雨はコーラがのめない』/江國香織(新潮文庫)
2007年10月2日 【論述】『雨はコーラがのめない』 ISBN:4101339244 文庫 江國 香織 新潮社 2007/06 ¥420
表4にあるあらすじからしてまずおもしろいとは思えなかった。
「ペット」と「音楽」なんて、エッセイの題材としていちばんおもしろくない部類だ(と思っている)。
そもそも、このようにたくさんのブログがはびこっている時代、(自らも含む)なんちゃってエッセイストもわんさか存在して、雑誌等に連載されるエッセイの価値がどんどん下がっているのが現状。
そんななか、恋愛小説家の大御所が世に放出したひとりよがりな題材のエッセイとは、果たして──。
なぜ「ペット」と「音楽」がおもしろくない題材かと思うかというと、まず、他人のペットの話はたいていおもしろくないからだ。
オーナーからしたら自分のペットがかわいいのはあたりまえではあるが、「うちの○○ちゃんがいちばんかわいい」等という親ばか丸出しのせりふに、「そうねお宅の○○ちゃんが世界でいちばんかわいいわ」なんて本心から返せる人が何人いるだろうか。
確かにかわいいペットたちはかわいい。
しかし、どんなにかわいい犬を目の前にしても、数カ月会っていなくても私のことを忘れることなく、しっぽをはち切れんばかりに振り回し、だらしなくあごを上げてよだれを垂らしながら泥だらけの汚い足で私に飛びつこうとする実家の犬が最高にかわいいと思う。
血統書付きでもなんでもない。
ただ、近所で子犬がたくさん産まれてしまって困っている人がいたから、そこからもらってきただけだ。
かわいいお洋服を着せられて駒沢公園を散歩させられているブランド犬よりも、森のなかをリード無しで駆け回ることができるうちの犬の方が何倍も幸せに違いないと信じている。
ペットのオーナーなんてそんなものなのだ。
だから、他人のペット話なんてわざわざ聞かなくてもわかってしまう。
次に、音楽の話。
これは単純に本から音が流れてくるわけがないからである。
どんなにいい音楽だと書いてあっても、その場で聞けないとなると、それがいいかどうかの判断ができない。
それに、生きている年代が少しでも違うと、音楽に対する価値観というのはがらんと変わるからだ。
このような理由から、私は「ペット」と「音楽」という題材をおもしろくないものだと考えている。
それなのになぜこの本を手に取ったかというと、江國氏が好きだからである。
このおもしろくない題材をどう料理するか、気になった。
それから、最近仕事で読んだ、自費出版用の持ち込み原稿がどうしようもなくつまらなかったというのもある。
もしかするとこれがいちばん大きな理由かも知れない。
飼っていた猫が死んだ、という実話と、そこから妄想した物語が合体した話なのだが、つまらなさを超えて怒りが込み上げてくるようなものだった。
「読んで感想聞かせて」と渡された棒ゲラに、「ブログの域を超えない」という評価しかできず、悔しかった。
もっとそれがどうつまらないのか、どうしたら良くなるかということが言いたかったが、私にはそれをうまく伝えることが出来なかった。
結局その方には丁重にお引き取り願ったのだが。
江國氏の文章なら、同じ「ペット」が題材の話でも、うまく評価ができるかも知れない、と思った。
ただの「ファン」から「編集者」になりたかった。
案の定、ページの半分くらいまではおもしろいと思う箇所がまったく見つからなかった。
それどころか、つまらないのに突っ込みどころのない完璧な文章にやきもきした。
一変したのは、ページを六割程めくったあたりからだ。
雨という名の江國氏のペットが、子犬の頃から右眼が弱かった、という記述が唐突にあらわれた。
子犬の頃からだというのに、本の先頭からこのことが書かれていなかったおかげで、私は雨にも江國氏にも同情することなく感情移入することなく読み進めることができていたのだ。
してやられたり、という悔しさ。
その後は、しだいに悪くなってゆく雨の眼の状態のことが少しづつ書かれているだけで、やっぱりおもしろいとは思えないような淡々とした日常が綴られているだけだった。
そして、本の最初から七割程進んだところで、とうとう雨は視力をほとんど失ってしまった。
それでも淡々と進む、江國氏と雨の日常。
そして、あとがきの後の、江國氏と雨の写真を見て私は気付く。
「江國氏の小説は、もともとが何でもない日常の一部分を切り取ったようなものだったじゃあないか」
私が普段読む江國氏の小説たちと、なんら変わり無い文章だった。
それがフィクションであるかノンフィクションであるかという違いだけだ。
この、つまらないと思っていた「ペット」と「音楽」という題材を、江國氏は私のスポンジのような場所にひたひたと染み込ませ、その部分をずっしりと重いものに変えたのだ。
私は、この写真を撮った、大野晋三という人物が気になった。
それを見透かしたかのように、次のページから始まった解説は大野晋三氏のものであった。
──音楽は、エッセイで扱われやすい素材である。しかし、それを成功させるのはとても難しい。
私は少しほっとした。
このようなことを考えるのは私だけでは無かったということに。
──江國さんはそんな失敗はしない。
その通りだ。
まったく、どこにも失敗している箇所は見当たらない。
この解説で、現在の雨の状況を知った。
今は、両目とも義眼で、明るささえ感じられないという。
それでも江國氏と雨は、今日も淡々と日々を過ごしているに違い無い。
音楽に浸りながら。
最後の最後まで、自らの筆で雨が義眼になったことを書かなかったのは、江國氏の、ちょっとした運命への抵抗なのかな、と思った。
もし違うとしても、そのくらいのほうが人間味溢れてて素敵だと感じるから、そう思わせておいて欲しい。
私はますます江國氏を好きになり、そして、この淡々とした日常を愛することができるようになった。
そして、本棚のいちばん手前にこの本を並べた。
表4にあるあらすじからしてまずおもしろいとは思えなかった。
「ペット」と「音楽」なんて、エッセイの題材としていちばんおもしろくない部類だ(と思っている)。
そもそも、このようにたくさんのブログがはびこっている時代、(自らも含む)なんちゃってエッセイストもわんさか存在して、雑誌等に連載されるエッセイの価値がどんどん下がっているのが現状。
そんななか、恋愛小説家の大御所が世に放出したひとりよがりな題材のエッセイとは、果たして──。
なぜ「ペット」と「音楽」がおもしろくない題材かと思うかというと、まず、他人のペットの話はたいていおもしろくないからだ。
オーナーからしたら自分のペットがかわいいのはあたりまえではあるが、「うちの○○ちゃんがいちばんかわいい」等という親ばか丸出しのせりふに、「そうねお宅の○○ちゃんが世界でいちばんかわいいわ」なんて本心から返せる人が何人いるだろうか。
確かにかわいいペットたちはかわいい。
しかし、どんなにかわいい犬を目の前にしても、数カ月会っていなくても私のことを忘れることなく、しっぽをはち切れんばかりに振り回し、だらしなくあごを上げてよだれを垂らしながら泥だらけの汚い足で私に飛びつこうとする実家の犬が最高にかわいいと思う。
血統書付きでもなんでもない。
ただ、近所で子犬がたくさん産まれてしまって困っている人がいたから、そこからもらってきただけだ。
かわいいお洋服を着せられて駒沢公園を散歩させられているブランド犬よりも、森のなかをリード無しで駆け回ることができるうちの犬の方が何倍も幸せに違いないと信じている。
ペットのオーナーなんてそんなものなのだ。
だから、他人のペット話なんてわざわざ聞かなくてもわかってしまう。
次に、音楽の話。
これは単純に本から音が流れてくるわけがないからである。
どんなにいい音楽だと書いてあっても、その場で聞けないとなると、それがいいかどうかの判断ができない。
それに、生きている年代が少しでも違うと、音楽に対する価値観というのはがらんと変わるからだ。
このような理由から、私は「ペット」と「音楽」という題材をおもしろくないものだと考えている。
それなのになぜこの本を手に取ったかというと、江國氏が好きだからである。
このおもしろくない題材をどう料理するか、気になった。
それから、最近仕事で読んだ、自費出版用の持ち込み原稿がどうしようもなくつまらなかったというのもある。
もしかするとこれがいちばん大きな理由かも知れない。
飼っていた猫が死んだ、という実話と、そこから妄想した物語が合体した話なのだが、つまらなさを超えて怒りが込み上げてくるようなものだった。
「読んで感想聞かせて」と渡された棒ゲラに、「ブログの域を超えない」という評価しかできず、悔しかった。
もっとそれがどうつまらないのか、どうしたら良くなるかということが言いたかったが、私にはそれをうまく伝えることが出来なかった。
結局その方には丁重にお引き取り願ったのだが。
江國氏の文章なら、同じ「ペット」が題材の話でも、うまく評価ができるかも知れない、と思った。
ただの「ファン」から「編集者」になりたかった。
案の定、ページの半分くらいまではおもしろいと思う箇所がまったく見つからなかった。
それどころか、つまらないのに突っ込みどころのない完璧な文章にやきもきした。
一変したのは、ページを六割程めくったあたりからだ。
雨という名の江國氏のペットが、子犬の頃から右眼が弱かった、という記述が唐突にあらわれた。
子犬の頃からだというのに、本の先頭からこのことが書かれていなかったおかげで、私は雨にも江國氏にも同情することなく感情移入することなく読み進めることができていたのだ。
してやられたり、という悔しさ。
その後は、しだいに悪くなってゆく雨の眼の状態のことが少しづつ書かれているだけで、やっぱりおもしろいとは思えないような淡々とした日常が綴られているだけだった。
そして、本の最初から七割程進んだところで、とうとう雨は視力をほとんど失ってしまった。
それでも淡々と進む、江國氏と雨の日常。
そして、あとがきの後の、江國氏と雨の写真を見て私は気付く。
「江國氏の小説は、もともとが何でもない日常の一部分を切り取ったようなものだったじゃあないか」
私が普段読む江國氏の小説たちと、なんら変わり無い文章だった。
それがフィクションであるかノンフィクションであるかという違いだけだ。
この、つまらないと思っていた「ペット」と「音楽」という題材を、江國氏は私のスポンジのような場所にひたひたと染み込ませ、その部分をずっしりと重いものに変えたのだ。
私は、この写真を撮った、大野晋三という人物が気になった。
それを見透かしたかのように、次のページから始まった解説は大野晋三氏のものであった。
──音楽は、エッセイで扱われやすい素材である。しかし、それを成功させるのはとても難しい。
私は少しほっとした。
このようなことを考えるのは私だけでは無かったということに。
──江國さんはそんな失敗はしない。
その通りだ。
まったく、どこにも失敗している箇所は見当たらない。
この解説で、現在の雨の状況を知った。
今は、両目とも義眼で、明るささえ感じられないという。
それでも江國氏と雨は、今日も淡々と日々を過ごしているに違い無い。
音楽に浸りながら。
最後の最後まで、自らの筆で雨が義眼になったことを書かなかったのは、江國氏の、ちょっとした運命への抵抗なのかな、と思った。
もし違うとしても、そのくらいのほうが人間味溢れてて素敵だと感じるから、そう思わせておいて欲しい。
私はますます江國氏を好きになり、そして、この淡々とした日常を愛することができるようになった。
そして、本棚のいちばん手前にこの本を並べた。
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