“脳内会話”という趣味
2013年8月26日 【雑記】すきな人のことを自分の脳内に取り込む、といったことをよくやる。
これは、幼少期からの癖である。
おとなしく、引っ込み思案だったわたしは、友だちを作るのが苦手だった。
その代わりに、自分のなかに他人を取り込んで、その人と脳内で会話をするという遊びをしていた。
すきな人をよおく観察して、その人のパターンを分析する。
こういうとき、こうする。
こう言ったら、こう返す。
そうやってその人をトレースするのだ。
こうして蓄積したデータを使って、すきな人と、脳内で会話をする。
すべてが脳内での出来事のため、たいていは平和だ。
けんかをすることもない。
きらいになることもない。
ただただ、おしゃべりをするだけ。
すべてが都合の良い方向へと進む。
なぜなら、わたしの脳内で構築されていることだから。
わたしにとって、都合の良い方向へしか進まない。
だからこそ、現実世界で逆のことが起こったときの落胆は大きい。
むしろ、たいてい逆のことが起こる。
最近は、逆のことが起こった場合の防御法を覚えた。
「脳内会話を行う際、“この会話が現実になることはきっとない”」と思うこと。
悲しいけれども、これが一番効果的である。
脳内で会話をすること自体が悲しいことだとは思わない。
むしろ、平和的である。
ただ少し悲しいのは、肌のぬくもりが感じられないことだけである。
これは、幼少期からの癖である。
おとなしく、引っ込み思案だったわたしは、友だちを作るのが苦手だった。
その代わりに、自分のなかに他人を取り込んで、その人と脳内で会話をするという遊びをしていた。
すきな人をよおく観察して、その人のパターンを分析する。
こういうとき、こうする。
こう言ったら、こう返す。
そうやってその人をトレースするのだ。
こうして蓄積したデータを使って、すきな人と、脳内で会話をする。
すべてが脳内での出来事のため、たいていは平和だ。
けんかをすることもない。
きらいになることもない。
ただただ、おしゃべりをするだけ。
すべてが都合の良い方向へと進む。
なぜなら、わたしの脳内で構築されていることだから。
わたしにとって、都合の良い方向へしか進まない。
だからこそ、現実世界で逆のことが起こったときの落胆は大きい。
むしろ、たいてい逆のことが起こる。
最近は、逆のことが起こった場合の防御法を覚えた。
「脳内会話を行う際、“この会話が現実になることはきっとない”」と思うこと。
悲しいけれども、これが一番効果的である。
脳内で会話をすること自体が悲しいことだとは思わない。
むしろ、平和的である。
ただ少し悲しいのは、肌のぬくもりが感じられないことだけである。
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